和久宗是公は、若いときには三好家・足利家・織田家に仕え、その後、豊臣秀吉の祐筆となり、のちには豊臣秀吉公昵懇衆の一人となる。
1590年3月の小田原征伐では、豊臣家の使者となり伊達政宗公に出陣するように促し、政宗公もこれに応じて参陣することとした。
激動の戦国を乗り切る豪放な性格を持つ宗是公は、政宗公の豪胆な気風に惚れ込み、小田原滞在中は政宗公を手厚く待遇した。
また、葛西一揆の際は、秀吉公から政宗公が陰の首謀者だとの嫌疑をかけられた。そのと き、宗是公は早急に弁明に来るよう政宗公に促し、秀吉公からの質問の内容や弁明に対する助言を行い、おかげで政宗公はお家断絶の危機をあやうくまぬがれた。まさしく、伊達政宗公のみならず伊達藩の救いの神であった。
1600年の関ヶ原の戦いで豊臣方が敗れ、宗是公は牢人の身となったが、1606年頃政宗公は恩人である宗是公を客将として禄高2,000石と破格の待遇で迎え入れ、仙台城と政宗公がたびたび訪れる松島瑞巌寺とのはざまにあり徳川幕府の目もとどきにくい幽寂境の黒川郡大谷邑川内の御成(みなり)沢に居住させた。
宗是公は、大坂冬の陣が起こると政宗公に「豊臣家のために死にたい」と願い出て許され、領地と禄を返上し大坂城に入城した。1615年5月7日の天王寺・岡山での最終決戦では、甲冑を着ていたら年寄りだと侮って近寄らないだろう」と、白綾(白地の綾織物)を被って徳川軍に突入して戦死した。その最後は、斉藤実盛の遺風ありと賞賛されたそうです。 享年81歳。
なお、宗是公の子和久是安は、豊臣秀頼公の家臣であったが、大阪落城後は政宗公が徳川秀頼公に助命嘆願して許され、伊達家の家臣として迎え禄高1,000石で遇し、栗原郡沼倉村に住まわせている。
(私見)
政宗公が、和久宗是公を現在の大郷町川内地区御成(みなり)沢(旧大谷邑)に居を構えさせたのは、次の理由と考えている。
徳川の世になっても、胸中に天下を取ろうとする野望を秘めていた政宗公にとって、中央や関西の情報は大変重要であった。和久宗是公は関西方面の動向を熟知し、又、室町幕府、三好家、織田家、豊臣家でも重用され知略に長けており、大谷邑は、その宗是公と密かにかつ容易に接することができる場所に立地している。しかも山深く、徳川幕府の目を避けるためにも好都合な場所であった。
また、大谷邑は、政宗公が別荘地として頻繁に訪れる松島と隣り合わせのすぐ近くにあり、政宗公は、しばしば瑞巌寺に宗是公を招き入れたり、御成沢を訪れ互いに意見を交わしたのではないかと考えられる。
政宗公が大谷邑を訪れたとする確証はないが、東成田の古老の言い伝えでは、伊達政宗公が大谷の地を訪れたとの言い伝えが残っている。瑞巌寺から仙台への帰り道に利府から一山こせば御成沢はすぐ近くにあり、途上立ち寄られたことは十分あり得ることである。
なお、1623年ころに、政宗公は大谷邑東成田鍛冶谷沢地区に支倉常長公を隠棲させていますが、欧州の情勢・情報を密かに聴取するためには大谷邑は好位置にあり、宗是公と同様に常長公を住まわせたのも合点がいくものである。
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わく またべえ そうぜ
生没年 1535〜1615
和久宗是公住居跡とみられる場所か?
みなり沢の、住居跡地と思われる場所。
今は、畑地になっている。
みなり沢
上流の山は、伊達藩時代から森林伐採を禁じられ、幽寂境の感がある原生林がいまでも残っており、自然保護区域に指定されている。
大郷町おこし協議会 事務局長 渡邊健一郎